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京雅堂の歴史
- ■ 沿 革
- 昭和6年(1931年)
- 初代 柴田一郎 東京都中央区日本橋蠣殻町にて創業
- 昭和28年(1953年)
- 株式会社 京 雅 堂 設立
- 昭和63年(1988年)
- 業務拡大に伴い京雅堂ビル移転
- 平成元年(1989年)
- 岐阜県多治見市に貿易関係物流センター新築
- 平成3年(1991年)
- 物流センター(第2京雅堂ビル)新築
- 平成10年(1998年)
- 別館新築 物流部門拡充
- 日本橋人形町の歴史
- (旧人形町と蛎殻町)
- 蛎殻町は江戸開府のころ隅田川河口の右岸の海浜の地で、その後の埋立で陸地化し、浜町とよばれた地域でした。
江戸初期のころには後の蛎穀町1丁目の地は大名の蔵屋敷があり、船で江戸に入る物品を収納する蔵屋敷地でした。
江戸中期にかけて浜辺の埋立が進み、掘割の開削が進むと、大名屋敷として区割りされていきました。 - 蛎穀銀座跡
- 南部の蛎殻町一帯が大名屋敷の並ぶ武家地に対し、北部は町人の住む町となり、花街として賑わい、
芝居小屋や人形操りの小屋が立ち並び、泰平の江戸期260年に渡り、庶民に楽しみを提供した町となります。
寛政12年(1800)には新両替町から幕府の貨幣鋳造役所である銀座が移転してきて、幕末まで銀貨や銅銭の鋳造を行った 「蛎殻銀座]がありました。明治初年には大名・旗本屋敷が民間地として払い下げられ、次第に町場となりました。 - 瀬戸物問屋
- 明治から大正期にかけて蛎殻町には、箱崎川の水運を利用した船荷が陸揚げされたため、 稲荷堀の通りには雑貨問屋が並び、1丁目には瀬戸物問屋が集中していました。それと共に米屋が多くなり、 米穀商品取引所が開設されます。このように蛎殻町一帯は商品先物取引の盛んな活気ある町として発展してきました。
- 人形町の繁栄
- 明治に入って人形町の賑わいは、水天宮が当町南端に移転してきたことにも起因して下町を代表する繁華街として知られるようになりました。明治36年には市電が人形町通りに開通し、人形町商店街にいっそうの繁栄をもたらしました。 大正12年9月の関東大震災で大きな被害を受けましたが、その後の復興も早く昭和8年の区画整理で、はじめて人形町という正式町名が誕生しました。
- 戦後復興・飲食街
- 再び昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で一帯は焼失し、大きな痛手を受けることとなりました。
戦後の復興は、人形町通りと新大橋通りに食べ物屋の屋台が並ぶころから復興に向かい、
夜中まで人々の往来が続くほどになりました。
昭和26年(1951年)には東京初のアーケードが完成しました(現在はありません)。 昭和の末期頃までは和陶器卸が集まっており、 夏の「せともの祭り」はその名残です。
昭和45年(1970)埋立により船運に利用されていた浜町川や箱崎川は無くなりましたが、 現在まで著名なメーカーや問屋が集中する新しいオフィス街に生まれ変わっています。